麻布在住の有名人 ④志村 けん
1950年、東京・東村山市生まれ。74年、ザ・ドリフターズに正式加入。TBS系『8時だヨ!全員集合』で「東村山音頭」が大流行。「カラスの勝手でしょ」「ヒゲダンス」など次々にヒット・ギャグを生む。86年からは単独でも活動。人気キャラクターに「バカ殿様」「変なおじさん」「ひとみばあさん」などがある。現在、フジテレビ系で「志村塾」が放送中。著書は『変なおじさん』(日経BP社)『志村流』『志村流 遊び術』(共にマガジンハウス)ほか
<略歴>
■付き人からドリフ入り
1950年、志村憲司・和子の三男として東京都北多摩郡東村山町(現在の東村山市)に生まれ、厳格な家庭に育つ。本名の「康徳」は、父親が徳川家康を崇敬していたことにちなみ、頭の「徳」と尻の「康」をとり、逆さにした。芸名の「けん」は、父親の名前「憲司」に由来する。
1968年、卒業間際にザ・ドリフターズの付き人になった。この際、リーダーのいかりや長介が志村を強引に東北地方巡業へ付き合わせたため、出席日数が足りなくなり中退の扱いにされてしまったと言われる。
初めは由利徹の弟子になろうとした。ついでコント55号かドリフのどちらに弟子入りするか迷ったが、音楽性の面からドリフを選び、1968年の2月にいかりやの家へ直接押しかけ、雪の降る中を夜中にいかりや本人が帰って来るまで12時間ほど待ち続けた。1週間後にいかりやから弟子入りを認められ、ドリフの付き人となる。当時のドリフは積極的に音楽活動を行っていたため、仲間内では「付き人」ではなく「バンドボーイ」と呼ばれていた。
加藤茶の付き人となるが、1年余りで一度脱走し、バーテンダーなどのアルバイトをしたりしていた。この時はいかりやの家に行き「1年間だけ時間をください。1年経ったら戻ってきます」と言ったが、当時夫婦喧嘩の最中だったいかりやからは「うるせぇこの野郎!」と無視された、と述べている。戻ってくる時はいかりやの家に行きにくかったので、加藤の家に行って頼み、いかりやへ口添えしてもらったところ、「2度も弟子入りするやつはよくよく好きなんだろう」と、出戻りを認めてくれた。その後、しばらく加藤の付き人兼加藤家居候となる。
1972年、22歳の時にお笑いコンビ・マックボンボンを結成し芸能界デビュー。テレビ番組『ぎんぎら!ボンボン!』に出演するも、失敗に終わった。1973年12月、見習いとしてドリフのメンバーに加入する。
1974年、荒井注が脱退し、正式にドリフのメンバーとなる。この時、いかりやは自分や荒井と同年代の新メンバーの加入を検討していたが、加藤の推薦により若手の志村が起用された。当時、志村は24歳だった。
■「東村山音頭」でヒット
ドリフの正メンバーになって2年間ほど(この頃の芸名は「志村ケン」の表記もあった)は、志村にとってスランプの時代でギャグがあまり受けずに苦しむ。
転機となったのは、『8時だョ!全員集合』の「少年少女合唱隊」のコーナーで「東村山音頭」を歌ったことで、これにより一躍人気者となる。
1979年には加藤茶との「ひげダンス」、1980年には「カラスの唄」が人気を博した。
■冠番組へ
1985年に『全員集合』が終了する。1986年に加藤をボケ役、自らをツッコミ役とした番組『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』がスタートする(1992年まで)。その後、自身をメイン出演者とした初の冠番組『志村けんの失礼しまぁーす!』(日本テレビ)、『志村けんのだいじょうぶだぁ』(フジテレビ)、『志村けんのバカ殿様』(フジテレビ)などで、ドリフメンバー以外との活動が多くなる。 この頃から「変なおじさん」に代表されるような、ドリフとは一線を画す独自のコントスタイルを確立し、第2の人気ピークとなる。
■現在まで
1997年後半以降、バラエティ番組のゲストとして呼ばれることが多くなった。また、子供の時にテレビで志村を見て育った芸能人などから再び注目され始め、第3の人気ピークを迎える。ただし以前のピーク時とは異なり、重鎮的なポジションで扱われる立場となったこともあり、全盛時と比べて露出度は穏やかなものとなっている。
1999年には映画『鉄道員(ぽっぽや)』に俳優として出演した。『古畑任三郎』の犯人役のオファーを断るなど、映画やテレビドラマには出演しない姿勢を一貫していた志村だったが、自宅の留守番電話に主演の高倉健直々の出演依頼のメッセージが残されていたため、「健さんの申し出があったのに出演しないとは言えなかった」と断れなかったという。
1990年代半ばあたりまでの志村は非常に照れ屋で、フリートークが苦手だったため、トーク主体のバラエティ番組への出演はほとんどなかった。トークバラエティ番組に出た時は歓迎されたが、やはりツッコミが主な仕事であった(これは他のドリフメンバーにも共通する特徴であった)。「自分自身のことを語るトーク番組の出演は苦手であり、地声は低音である」と、2002年5月29日に放送された『わたしはあきらめない』(NHK制作)で語っている。しかし、その後ダウンタウンの番組に頻繁にゲスト出演する経験を経て、素顔でも出演するようになった。